潔癖症なのに汚部屋な男のお片づけ物語

ろくに生きていないのに再生物語とは書けない。とりあえず一度でも、生きろ。

まずはこの山からだ

f:id:takehuhito:20180211120134j:plain

ひと月たってしまったか・・・自分は文章書きを本業としているもので、

またそう若くもないもので^^ひと仕事するとブログまで書く余力がなくなって

しまうのですよ・・・ってまた言い訳ですがな。

まあしかし、文章では完全に食っていけてないので、アルバイトもしていますよ。

東北6県各地飛び回っては都へ戻ってくる、という特殊な仕事です。

あっ この場合、都っていうのは「東北の都」な!笑

それがどこかっていうのは、まあ自分は秋田市でも盛岡でも、仙台でもあとやっぱり

平泉でもいいと思っているんだが・・・東北人それぞれの心に、都はある・・って事で?

 

ともあれ、先日も、アルバイトでこの山を通過し、また通過して帰ってきましたよ。

これは福島県の北の端、「伊達の阿津賀志(あつかし)山」と呼ばれた圧樫山です。

標高は300メートルもない、小さな山でありますが それ故に「天然の要塞」と

された、とある史跡なのです。12世紀、千年近く前になるのですかな 平泉の

藤原氏がここで、あの源頼朝率いる10万人ものすさまじい大軍を迎え撃ち

「ここから先(の東北)へは通さねえ!!」と踏ん張った場所であるのですね。

ここはこの山の背後に並居る山地と、大河である阿武隈川もあり、比較的少しの

労力で大軍をも堰き止める要害が築ける、という東北でも屈指の土地柄でした。

しかし平泉側が繰り出した軍勢はわずか2万人。結局敵の大軍に破られて、

平泉藤原氏は滅亡となります。ちなみに、平泉藤原氏最後の棟梁・泰衡は

通称を「伊達小次郎」といい、またこの地の攻略に手柄のあった頼朝の家臣が

伊達を名乗ってここを支配し、のちの仙台伊達氏へとつながっていきます。

 

ところで平泉藤原氏というと、いまの東北全域を支配していたとも言われるの

ですが、ではなぜいまの福島県南端の、白河の関あたりで踏ん張らなかった

のか、といいますと、どうも白河というのは伊達のような大軍を迎い撃てる要害

が築ける土地柄ではなかったようなのです。それと、もともといまの秋田・岩手

・山形・宮城の各県を確実な支配域としていた藤原氏にとって、福島県域は

無理に味方に引き入れるには微妙なところだった、という話もあります。

そんな訳で、白河の関を東北と以西の日本国を隔てる「第一の国境」とするならば

圧樫山のある伊達の地は「第二の国境」という事ができるでしょう・・・できない?

(第三の国境、となるとやはり「関山」と呼ばれた平泉なのでしょうね。)